【Trip Report】電通退社後のシアトル旅行

【Trip Reportとはブランディングプロジェクトでインタビューを開始する前に私が行なっている旅行関連の質問で、価値観に関するインサイトを見つけやすくお互いに楽しみながらインタビューできるというメリットがあります。】今回は私が電通退社直後に行ったシアトル旅行のお話をしたいと思います。文字通り全身全霊で自分が持っているもの全てをかけて取り組んだ0→1(ゼロイチ)のプロジェクトであるソフトバンクモバイルとソフトバンクホークスのシナジープロジェクトを、ホークスの優勝の確度が高まった段階で先輩社員に乗っ取られた絶望で電通を退社した直後にホークスが優勝。精神が崩壊しかけて救いを求めて向かった先は、ホークスファンにとってMLBの中で最も身近な球団であるシアトルマリナーズの本拠地・シアトルでした。

福岡市民とホークスの歴史

母親は小さい頃に平和台球場の近くの赤坂に住んでいたので私の祖父と二人でよく野球観戦に通っていたそうです。当時の球団は西鉄ライオンズ。その後球団売却で本拠地が所沢に移り、福岡はしばらく地元球団不在の時期がありました。当時の福岡市民はその遺伝子から西武ライオンズを応援する人が多かったようで、私も小学生の頃は西鉄ライオンズを応援していて平和台へ応援に行くと目の前でクールにバク転を決めてくれる秋山選手のファンでした。1988年にダイエーホークスが福岡に上陸したけれど、私はまだ子どもだったのでどうしても縦縞のユニフォームデザインが好きになれず、周囲の人達が徐々にホークスファンに移行していくのを少し冷めた目で見てたりしてました。

転機になったのは福岡ドームの建設です。1992年にガールスカウトのアクティビティの一環として建設中の福岡ドーム(1991年施工、1993年開場)に見学に行った際に建設模型と合わせてご説明頂いてその規格外のスケールと格好良さに覚醒してホークスファンになり(※この時点ではまだライトファン)、1994年に「世界の王」・王監督が福岡に来てくださって一途に球団改革に取り組まれている姿に感銘を受けて完全なるホークスコアファンへと成長。王監督は福岡市民にとって英雄で、私はその尊敬の念から大学は早稲田へと進学しました。大学生の時には当時球団社長をされていた高塚猛さんの講演会にも参加し「著作権を解放することで福岡にホークスを根付かせた」などマーケティングやPRの観点からもホークスのことを学ぶようにもなりました。この頃から、帰省の度に当時父が親しくさせて頂いていた井口選手の年間シートで父と一緒に熱心に応援しつつ球場全体を俯瞰で観察したり、雁ノ巣球場へ2軍の応援に行く父の話に耳を傾けたり、家族旅行で宮崎キャンプの視察に行ったりと、福岡ドームを起点にホークスの楽しみ方が増えて行ったように思います。

そして2004年。ホークス球団の存続の危機にハラハラしていた中でソフトバンクの孫社長が、球団を救ってくださる、しかもホークスファン・福岡市民にとって魂である応援歌もそのまま残してくださるとの報道を受けて心を鷲掴みにされ、東京在住の福岡の友達と一緒にカラオケに行って「いざゆけ若鷹軍団」を何度も歌って歓喜したのも素敵な思い出です。

電通でソフトバンク担当に

その後私は2005年に早稲法を卒業→外資系ブランディングエージェンシーに入社してブランディング/マーケティング戦略立案と制作進行を担当→サマンサタバサでプレス(広報)→電通の営業とキャリアを進めたのですが、外資系ブランディングエージェンシーではVodafoneを担当していたので2006年にVodafoneがソフトバンクに買収された時も孫社長の凄さを実感したり、サマンサの前に某大手エンタメ会社の宣伝部のイベント案件で4大ドームツアーに帯同し福岡ドームの運営側を少しの期間だけ体験することができたりと、少なからずソフトバンク、ソフトバンクホークスとの接点がありました。

これまでの経緯もあって電通でソフトバンク担当になった時は「孫社長に恩返しができる!」と運命を感じてしまいました。入社前の面談で「福岡出身でホークスファンです。ホークスの仕事もしたいです。」と宣言すると、次長や部長陣から「ホークスは九州電通の扱い(※アカウント担当のこと)だからね」と言われて少しだけ意気消沈したものの、Vodafoneと日本テレコムを担当していたのでその流れでソフトバンクモバイルを担当できるのは私にとってこの上ない喜びでした。

ソフトバンクモバイルとホークスのプロジェクトの主幹に

2008年に電通に入社した直後のiPhone 3Gの発売関連のマーケティング業務や大統領選挙のマーケティングのケーススタディ作成などスポットで激務になることはありましたが、もともと新卒の頃から深夜まで働くのが日常だったし、業務内容も大きく変わらないので平和に過ごしてました。2009年1月に入ってすぐの頃、東京在住の福岡の知人経由でお呼ばれしたお年賀会で王監督にご挨拶&記念撮影写真させて頂く機会に恵まれました。「きっと良い年になる!」という直感は当たり、その年の3月の中旬にソフトバンクモバイルとソフトバンクホークスのプロジェクトが急遽始まって私も「福岡出身でホークスファンだから」という直属の部長のご英断によってアサインされることになりました。

3月中旬から4月頭の開幕に向けて九州電通にヒアリング→福岡ドーム視察&ホークス担当者とのご面談→クライアント2社(ソフトバンクモバイル、ソフトバンクホークス)へプレゼン→座組みの調整→制作物作成&PRなど、0→1プロジェクトであることに加えて諸条件も厳しくカオスな状態で膨大な業務をこなすのは非常に過酷でした。初めは野球好きの部長の下に営業として元高校球児の3人と私の5人体制だったのですが、「営業が何人も徹夜する仕事のやり方はおかしい」と行って開幕前には先輩2人が離脱してしまい、残ったのは部長と私の2人(残った1人の先輩は私に仕事を丸投げするのでノーカウント)。

結果、無事に開幕を迎えることができその直後のPRイベントや販促キャンペーンも成功。約1ヶ月間という急速なスピードでカオスの状態から業務状況を急速に立て直すことができたのは、クライアントであるモバイルとホークスの担当者のご尽力、早稲田の大先輩でもある部長のマクロマネジメント、そして業務内容が私のこれまでの経験にぴったりハマったお陰だと思ってます。そもそも高校野球とプロ野球球団は別物。ホークスPJには「福岡、ホークスを盛り上げる」という趣旨があり私はそれをビジョンにしてホークスコアファンとしてこれまでの知見を活かし熱心に仕事に取り組んでいた一方、先輩方は「元高校球児の自分が、自分の好きな野球を」というサークル気分の言動だったのも大きな違いだと思います。

当初のカオス感と比べると落ち着いたものの、それでもプロジェクト全体の枠組みを作りながら野球の年間スケジュールに合わせて施策を企画&実行していくのは試行錯誤の連続で非常に過酷でした。ホークスPJ単体でも大変なのに本業であるソフトバンクモバイルの通常業務もあって、過労死ラインを超えた時間外労働100時間超えの長時間過重労働が常態化していて毎日24時〜26時頃まで勤務してました。日帰りを含めて福岡出張が月に3、4回で土日もイベントで12連勤が続き、1日1食の日々。ホークスPRの業務はマス広告からPR、販促、プロマネまで幅広く、朝から夕方は関係各所とmtgや連絡業務、夕方以降で校正や企画書・調査レポート作成、営業作業に追われていて、1日に2〜3回転営業のような激動の毎日でした。毎日眠たくてお腹空いてて精神的負荷の高い業務に追い詰められて、人間らしい扱いをされていないなとも思ってました。

深夜26時に業務終了→朝7時から羽田の格納庫でスチールとムービーの撮影→10時の飛行機で福岡へ→お昼からプレスイベント→事後PRの実施や制作物関連の打ち合わせ→最終便で東京へ→会社へ直行してイベントのレポート作成やその他の通常業務で深夜26時に業務終了というワイルドな1日を過ごしたこともあります。3歳から水泳をやっていたので体力には自信があったけれど流石にこの日は帰りの飛行機の中で過労死という単語が頭に浮かびました。仕事とホークスが好きという情熱、自分がいないとPJが回らないという責任感・気力で乗り切っていたのだと思います。また、部長が深夜残業中に言ってくれた「ホークスの仕事は週報に載せられないくらいのスピード感で動くしマニアックな仕事も多い。モバイルと比べるとロットは半分で、それでこれだけ売上を積み上げて(仕事を)仕切ってる。もっと自信持った方が良いよ。スポーツ紙の一面を飾る仕事なんて電通の中でもほとんどないよ。」と励ましてくれた言葉も挫けそうな時の心の支えでした。

ホークスPJの2年目に起こったプロジェクトの乗っ取り

2009年11月に入ってマーケティングチームからより多忙な販促チームに配置替えとなり、兼務案件がホークスPJに加えてソフトバンクモバイルのノベルティグッズ制作も加わりそれらが重層的かつ相乗的に作用して一層過酷な状況に陥りました。金曜の深夜26時に業務が終わって、翌日からファン感謝デーのため福岡出張へ行く手持ちのパネルやクライアントの上長へのシーズン締めの報告プレゼンのプリントアウトなど最終準備をしていた際にあまりの激務に座り込んで泣いてしまったら部長が「見てる人は見てるから」と言ってくれたことも。救いだったのは、ホークスPJの2年目のシーズンは1年目のカオスと比べて仕組み化ができていたので少しプロジェクトを楽しむ余裕ができていたこと。ですが、ホークスの優勝の確度が強くなった頃、プロジェクトの立ち上げ初期にプロジェクトから離脱した先輩の竹島典明さんという方が急に入ってきて徐々にmtgから私を排斥するなど蠢動が進み最終的にプロジェクトは完全に乗っ取られてしまいました。竹島さんは私よりも10歳近く年上でしかも会社内で神様的存在のシンガタの佐々木宏さんの担当営業。私は当時20代後半でこれまでの超過重労働や色々なセクハラ・パワハラで満身創痍。「そんなに野球のプロジェクトがやりたかったんならそもそも最初からプロジェクトを頑張って残ってれば良かったのでは。カオスな状態だからか過酷な業務だからかプロジェクトの超初期に自分の判断で見切って離脱しておいて、10歳近く年下の女性が頑張って回して成功させたプロジェクトを裏で画策して乗っ取るのはフェアじゃない。」と私は心の中で強く憤怒しましたが、あまりの衝撃で絶望しか無かったのでプロジェクトの乗っ取りが最終的なきっかけとなって9月に電通を退社しました。

辞表を出してからは本業の販促チームの業務の引き継ぎ業務やもう一つの兼業のノベルティ制作業務の引き継ぎ業務を淡々とこなしてました。ホークスPJの引き継ぎ業務は竹島さんから依頼も無かったし、そもそも外されたから引き継ぎのしようもない。それに、1年目のシーズンの激動の中でシステム化を進めていて誰でもできる状態に仕上がっていたから引き継ぎ業務をする必要性は皆無。さらに、プロジェクトの立ち上げ当初からいた私の直属の先輩で3年次上の山岸夏彦さんは残っているし(山岸さんは業務をしていないけどメールでccにずっと入っていたし宮崎キャンプ出張にはクライアント接待のために参加されていたので全体業務は把握されてるはず。)何か問題が起こったとしてもそれを都合よく私の責任にスライドするのは違うと思うし、あとは部長、竹島さん、山岸さんの責任だと。

なので家に帰ってからは英語でレジュメを作成して外資系広告代理店のWieden+Kennedy Tokyoに送ったりしてました。WiedenからはGoogleのアカウントの件で打診があり、不思議と受かる感覚があったのであとは心身を元気にすることに専念しようと、プロジェクトの乗っ取りや退社のあれこれに対しては心を無にすることを心がけていました。ホークスへ最後の挨拶に伺うことも会社から禁止されていたし(業務で何度も日帰り出張したしプロジェクトから外されて時間もたっぷりあるのに)、退社が決まると色々と心ないことを言ってくる人たちもいましたが、ソフトバンクモバイルのホークスPJの上長がランチに誘ってくれて「『あいつが辞めたら誰がホークスPJのディレクションをするんだ』と辻ちゃんの部長に怒ったんだけどな」と言ってくれたから、もうその言葉だけで十分だなと心から思いました。私は泣くこともなく淡々と退社の挨拶をし、退社直後にホークスPJの部長と直属の部長、早稲田の先輩とだけ飲みに行って、残りの人たちからのお誘いは「お気持ちだけ頂きます。」と全てお断りしました。私が心を開いていたのは結局のところ早稲田の先輩2人だけだったんだなと少し淋しい気もしながら。

ホークス優勝、シアトルへ

その後ホークスが優勝。ファンとしては喜ばしいことなのに喜ぶことが出来ず福岡に帰ることもできずアイデンティティが崩壊してずっと泣いてました。友達から「ホークス優勝おめでとう」のメールが来ても返事をすることも出来ず、唯一、某エンタメ会社で4大ドームを一緒に回った時の上司がくれたメールには返信することができて起こったこと全部を報告しつつ、このままだと悲しくて辛くて死んでしまいそう、荒治療になるかもだけどシアトルへ行ってどうしても決断したいことがあると心のままの乱文を送ってしまいました。すると「そんな酷いことが起こったんだ。真理ちゃんが嬉しそうにホークスの仕事ができると報告してくれた日のことを思い出すと言葉が出ない。今は福岡に帰るのも辛くなるだろうし、行けるなら心身を守るためにシアトルに行った方が良いと僕は思う。」と背中を押してくれたので、急遽シアトルへ行くことに。

飛行機の中でこれまで何度となく聞いたスティーブ・ジョブスのスタンフォード大学の卒業式でのスピーチを聞いて、「分かる!どうしてプロジェクトの立ち上げの功労者がプロジェクトから排斥されないといけないの?」と泣いたりしつつも、「シアトル(Seattle)に着いたら、私の気持ちも少しはセトルダウン(settle down:落ち着く)するといいな。あ、韻を踏んでる?」とか少しずつ英語脳に切り替わっていくことで少し気持ちが楽になっていきました。

まずシアトルに着いたらヒルトンにチェックインしてコンシェルジュに付近に観光客が立ち入らない方が良い治安が悪いエリアはどこかなどをヒアリングして、すぐにセーフコフィールドで野球観戦。試合前に皆んなで国家斉唱をした段階で「Authentic!」と大興奮してしまい、初秋のシアトルは流石に肌寒かったけどオープンエアーで天然芝の球場で野球観戦できるのはとても新鮮で心地良く、MLBのケーススタディを作った時に感じた日本の野球との違いを実体験できることの一つひとつに歓喜してました。イチロー選手のボブルヘッドの時計もちゃっかりと買っちゃいました。

翌日もデイゲームを観戦して、マリナーズのスタッフに球場内やバックヤードを案内してもらっていっぱい話をしたり記念撮影もしてもらって、「野球を愛する気持ちを変える必要はない。0→1への立ち上げは私にしかできなかった。プロジェクトを誰でも回せる状態にしたから自分の役割は終了で次の挑戦のための卒業。WiedenでGoogleの仕事を頑張る!」と気持ちを整理することが出来ました。その後は、Tiffanyでお買い物をしたり本屋さんでGossip Girlやマーケティングの原書を買ったり、スターバックスの1号店でホットラテを買って海の近くを歩いたり、パイクプレイスマーケットでお買い物をしたり、しっかり観光も楽しむことが出来ました。

Googleで最高の体験

シアトルで気分を変えることが出来たので10月上旬からはWiedenでGoogleの仕事に集中して刺激や学びの多い充実した日々を過ごすことが出来ました。会社に所属した時代での最高の仕事がGoogleのTVCMとOOHの街ジャック、OOHのクリエイティブを活用してのポストカード(Giveaway)制作であると今でも確信してます。まずGoogleほどの大企業の外資系ブランドが本国で作成したクリエイティブのアダプテーションではなく、日本オリジナルのクリエイティブ制作を行なうことが衝撃でした。WiedenでECD、監督、アートディレクター、コピーライター、アートバイヤー、アーティストの方々と一緒に「Creative First」で制作業務に関わることが出来たのは私の広告代理店人生の中で掛け替えのない財産です。今でもそのポストカードはアクリルフレームに入れて大切にお部屋に飾ってます。

結果論ですが、竹島さんによるホークスプロジェクトの追放劇がなかったら私は電通を退社していないし、Googleの仕事をすることもなかった。40代の人がプロジェクトから離脱後に乗っ取りたくなるような仕事を当時20代でやっていた自分は凄いなとも思えたし、自分の人生の区切りのタイミングにWiedenでGoogleの仕事ができたのは神様からのプレゼントだと思いました。また、当時は山岸さんが仕事を丸投げしてとネガティブに捉える時も多々ありましたが、山岸さんが仕事を丸投げしてくれたから私は自分の年次より上の責任ある仕事に従事して経験値を上げることが出来てGoogleのお仕事をすることが出来ました。あまりの激務だったのでキャンペーンチラシ印刷の更新(日付変更)だけでも対応してもらおうとお願いした時に「辻ちゃんのキャパが広がんないじゃん」と言われて「先輩は20時に帰ってるのに。全部丸投げじゃなくてチラシの日付変更くらいやってよ。」という思考から「ただの日付変更のチラシ1件を依頼しただけでここまで言われて消耗するのも無駄。自分でやるしかない。26時以降の対応になりそうな仕事は早朝に来て処理するしかない」と切り替えるなど試行錯誤したのも大切な思い出です。お二人にも感謝しないといけない。

そうして乗り越えてきましたが、流石にシンガタの佐々木宏さんのオリンピッグ騒動があった時には、mtgから排斥するなど私の体験と類似の箇所が多々あって、プロジェクトの乗っ取りなどのフラッシュバックでしばらく眠れない時期があったのも事実です。久しぶりに当時同じチームで働いていた直上の先輩に連絡して何度も話を聞いてもらって「最後の方は竹島さんのみたいな仕事になってたよね。ホークスの仕事。調子良く美味しいところ取りされた感覚はあるよね。しかも美味しいところ取りどころか、一番キツイところだけやらされて外されたっていうのは、辻さんは福岡出身だし思い入れも一番あるだろうし。最初から諦めずにずっと齧り付いてきたにも関わらずだよね。」と私に寄り添った発言をしてくれたからそのデータに触れるたびに本当に心が救われて、「最終的に乗り越えて良い結果に転じたことは否定し難い」と立ち返り、またお二人に心から感謝することができるようになりました。

人は結局のところ自分が経験してみないとその本当の気持ちが分からないものだと思います。私がここにプロジェクトの追放劇の経緯を書いたのはサバイバーとして同じような被害に遭った人の命を救うため、そして同じような被害者を出さないためです。

余談ですが、色々あっても私は変わらずホークスファンのままでした。2023年から2024年にかけてホークスファンとして気持ちが揺らぐ報道が多々あって、愛を試されているような気がしてます。